ブギス人の到来
インドネシアのスラウェシ島を起源とし、海洋貿易に長けたブギス人が、1820年2月、オランダ人との武力衝突の後、約500人がシンガポールに避難してきました。彼らはシンガポールの海上交易の発展に大きく貢献しました。
1822年、ラッフルズ卿は都市計画を策定し、このエリアにアラブのカンポン(村)とスルタンの邸宅、ブギス人のカンポン(村)を含む、ヨーロッパ風の町を設計しました。しかし、ヨーロッパ人はこのエリアに定住せず、代わりにチャイナタウンの過密状態が進むと、多くの海南人コミュニティがブギス地区に移住してきました。
売春宿通りとしての歴史
移民コミュニティにおける男女の人口比率の不均衡から、植民地政府は売春宿を「必要悪」とみなし、1870年に政府登録の売春宿を合法化しました。最初、ヨーロッパ系の売春婦たちがこの地域を占拠していましたが、1864年に彼女たちの排除運動が行われ、ヨーロッパの売春宿は撤退しました。
その後、1877年頃に日本からの移住者たちがこの地域に入り、2軒の売春宿を開業しました。ブギスストリートの一部は「リトルジャパン」として知られるようになり、日本人コミュニティが集まり、1920年に日本の公娼制度が廃止されるまで、約130軒もの売春宿が営業していました。
1950年代から1980年代初頭
ブギスストリートは、地元民や観光客にとって人気のナイトスポットとなりました。ドラァグクイーンやトランスジェンダーの天国として知られ、夜遅くまで路上でパーティが開かれていました。しかし、路上売春や暴力団によるトラブルも多く、警察は度々問題に対処していました。
ブギスストリートの変貌
1984年、政府がブギスストリートの再開発を表明し、1985年にショップハウスの取り壊しが始まりました。行商人や店舗、トランスジェンダー、売春婦たちは他の場所へ移転しました。
解体後、シンガポール観光局はブギスストリートの再現を試みましたが、これは成功せず、10年後の1995年に、現在のブギスジャンクションがかつてのブギスストリート、マレーストリート、ハラムストリート、マラバルストリートの跡地にオープンしました。
参考:biblioasia website
https://biblioasia.nlb.gov.sg/vol-11/issue-3/oct-dec-2015/bugis/
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